神が人間を創造(つく)ろうと思われた。しかし、そんなことは信じられない、そんな証拠はどこにあるのか、と言う人もあるかもしれませんね。
私は親(神が人間を創造したのであれば、神は人間の親だと思います)である神が人間に、あなたたちは私が創造(つく)ったのですよといったなら、そのことだけで、充分納得できます。
私たちが今ここに、存在していることがその証拠です。
私はよく、人に話したりすることもあるのですが、私たちはよく、子供ができた、子供をつくったという言葉を口にします。しかし、よくよく考えると、その言葉は間違っています。子供というものは、何か不思議な力によって、私たちの知らない(意識していない)ところで創造され、成長して、母親の胎内(たいない)から生まれてきたというのが真実です。
母親はその胎内を、子供に貸したとはいえるかもしれませんし、子供が生まれてからは、親というものは、かなりの犠牲をはらって、育てるのもほんとうでしょう。でも、創造(つく)ったかというと、それは違うのだと思います。
まだ何も存在していない、無。
そこには物質(もの)はもちろん、今ここに存在している法則というものもありません。
ただそこに親である神、月日という二神、月様、日様がいるだけです。月様が日様に相談します。人間というものを創造(つく)り、その人間が無邪気(むじゃき)に、にぎやかに暮らすのを見て、(神も)共に楽しみたいと思われたのだそうです。日様も同意して、人間創造がはじまりました。
この人間創造のために、その創造の段取りがなされることとなりました。まず、一番最初になされたのは、人間の親というものの選定です。そして、その親にちゃんと了解させ、その使命をまっとうさせることです。
そのたましいを神は選ぶことになります。
ですが、それは、とてつもなく、大きな責任をともなう、困難な使命です。誰もが、尻込(しりご)みしたくなるようなものです。
ですが、そんな使命を最後には、承諾(しょうだく)することとなります。神の説得に、断りきれるたましいはありません。
きっと、できるとか、できないとか、そんなことを考えてできるものではないのでしょう。ただ、与えられた使命を、夢中になって果たすしかない、承諾した以上は、わき目もふらず(一心に)やるしかない、というようなことなのだと思います。
さきほども言ったように、(人間の)親というものは子供を創造したかというと、創造などしていません。しかし、この世はじまりに、神から人間の親の役割を与えられた存在こそが、人間を創造したといえます。私たちはそれからすると、あたかも仮の親のようです。子供を実の親から頼むよといって預けられ、育成を一時的にまかされたようなものです、それがこの世のほんとうのことだと思います。