秋晴れのなかに一連の雲あり

残り少ない人生を、神とともに

この世のはじまり (10) ~この世という舞台~


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神が人間を創造するとき、それは私たちがイメージするものとはおおきく違っています。神は人間の原形であるたましいに協力を要請し、それぞれに大きな役割、使命をあたえ、この(人間創造という)大事業を行うことになりました。

もちろん、その中心に神が存在しています。その姿は大龍と大蛇であったといいます。大龍は水の象徴ですし、一瞬にして千里を走るという伝説がありますから、イメージとしては、三次元の空間を創造しているのかもしれませんね。水のないところに生命はうまれませんから、まさに水は(人間、生命にとって)神です。

大蛇は火を意味し、また、頭が十二あるので、時間が象徴されています。

時間と空間、火と水。科学が、もしくは、人間の知恵というものがどんなに進んだとしても、つくりえないものです。人間とはつくづく愚かだなぁと思います。神が作った舞台で、なにもかもお膳立てしてもらっていながら、神を否定するのですから…

自分が今、立っている舞台はだれがたてたのでしょうか?人間は自分の演じたことを、とても誇りますが、その舞台をつくってくれたさまざまな舞台関係者に、感謝が一つもない役者のようです。舞台に立たなければ、まして、まず舞台そのものがなければ、演じることもできないはずなのに…


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この世のはじまりを考えるなんて、ばかばかしいし、何の根拠があるのですか。そう言うかもしれませんね。

でも、私たち人類は今、袋小路で立ち往生しています。環境汚染に歯止めがかからず、人々は簡単に独裁者に身をゆだねます。日本の政治は三流とよく言われますが、その政治家を選んでいるのは私たちです。日本の将来を訴える政治家は、まだましなのかもしれません。私たちは、今(だけ)をどうにかしてくれと叫んでいるのですから。

この世のはじまりに、まだ、時間も空間も存在していません。そこに、時間と空間というものが、生まれました。火と水といってもよいでしょう。この二つの、想像を絶する奇跡が神です。次にこの二つの奇跡を軸にして、たましいも、この創造に参画することになります。

人間の親が選ばれました。次に、人間がこの世界を生きるためには、形あるものが必要です。突っ張るものと、つなぐ力です。人間が生き通しでは、人間は人間らしく生きることができません。間違うことは失敗ではありません。人間はまちがい、苦しみ、悔やみながら成長し、心というものを育てます。ですから(間違っても)罪ではありません。でも、人間はまちがいを許そうとはしませんので、一度、全くゼロに戻り、やり直すことが必要となります。

そのために、人間の生と死が必要なのです。もちろん、それも人間の知恵、力の及ばない神の働きといってよいでしょう。

最後に人類が生き続けるために、万物が循環する仕組みを神はつくりました。それも、単なる循環ではなく、循環する過程のなかで、はじめは単なる物質(もの)であったもののなかから、奇跡のような能力が生まれています。そのさまざまの能力が引き出されることによって、循環が完成します。

このようにして、私たちの身体(この世界)が、あたりまえのように動いているのです。

 

 

 

この世のはじまり (9) ~神とたましいの境目~

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この世のはじまりとは、神が人間を創造して、共に楽しもう思われたのだと、神話は語っています。

神の人間創造というと、神が絶対的な力を使って、自由自在(じゆうじざい)に力を発揮するようなイメージが浮かびますが、実はかなり違います。

まず、二つのたましいに、人間の親となるように依頼しますが、なかなか、「はい」とは言いません。それでも、説得を重ね、将来、子供である人間からお礼を言われる日がくることを約束して、やっと承諾させます。

このように、神が直接手をくだすのではなく、(人間の原形である)たましいが神の要請に答え、人間創造という神の大事業に加わることになります。

きっと、次のようなことだと思います。

たましいというものが、そもそもがどんな存在なのかはわかりませんが、まだ、神との境目もはっきりしていない状態だったのでしょう。そのとき、神から、人間というものを創造することを打ち明けられ、協力を要請されます。しかし、それが、どれ程の大事業なのかもわかりますので、躊躇(ちうちょ)したのだと思います。神に協力しなければならないという思いと、でも、それに協力するには、神の心と寸分違わない心にならなければならない。本当に真っすぐな、わき目もふらず、一つの心でやらないと、やりきれないことがわかっていますので、なかなか決断できなかったのでしょう。

しかし、断ることもままなりません。神の強い思いと、先々にきっと、喜べるときがくることを約束されたのですから…

とうとう、この大事業に協力することを決めます。


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人間創造のたましいの役割は、まだまだあります。人間がこの世を生きるためには、形あるものが必要です。人間の身体もそうですし、人間が住むための住まい(環境)も必要でしょう。そのために、つなぐという力、突っ張る(つながない)という働きが必要です。

人間が人生を生きるためには、生と死も必要です。(人間の原形であるたましいが生き通しなので)死ぬことによって、たましいに戻り、原点に戻る、初心にかえるということが必要となります。もし、人間が過ちをおかしても再出発できるよう…。これこそが本当の、生まれ変わるという意味なのかもしれませんね。

この生死をつかさどる役割は、風(息)の働きと、人間が死ぬときの働きです。人間が生まれるとき、はじめて息を、外から体内に入れます。そして、死ぬとき、息を閉じることによって、死を迎えるのです。これも神(たましいの)の働きなのだそうです。

 

この世のはじまり (8) ~守護(まもり)~


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神が人間を創造するにあたって、実際に人間を産み出すために、二つのたましいに、人間の親の役割を与えることになりました。

しかし、それだけではまだ、足りません。人間が人間として成り立つためには、当たり前ではない力が必要となります。

これを守護という言葉で表現しています。なぜなら、ただ単に(理由なく)法則があるわけではありません。親である神が、陰から目には見えないところで働いている力なのです。それは、あたかも、子供が何の心配もなく自由に遊んでいるように見えて、本当は親が陰で目を光らせているようなものです。ですから、守護(まもり)なのです。

人間創造にあたって神は、神自身が直接創造するのではなく、いくつかのたましいに役割、使命というものを授けることになります。


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まず、この世界、人間に形がなければなりません。この世界、人間をかたちづけ、成り立たせるためには、勢いよく突っ張るものと、どんななかにもつながるもの、この二つが必要となります。

つながる力と、つながらない力といってもよいでしょう。わたしたちの身体(からだ)を考えるとわかります。わたしたちの身体のなかの、例えば心臓の細胞どうしは、しっかりとつながってなければなりません。でも、心臓の細胞と他の臓器の細胞がくっついてしまったら、たいへんです。

つながる力と、つながらない力といっても、言葉にすれば簡単ですが、実際に身体のなかで働いているものは、絶妙といっていいでしょう。こんなこと、自分の力でしているとはとても思えません。私たちがあたりまえとして、意識さえもしていない力といっていいのではないでしょうか。

このつながる、勢いよく突っ張るという神の守護(まもり)にも、二つのたましいが選ばれ、その役目を果たすことになります。

なぜ、神は直接創造しようとせず、それぞれのたましいに、その創造をまかせたのでしょうか。

それはこんなことかもしれません。

神は人間を創造しましたが、人間がその後(のち)、どのような世界を創造(つく)るのかは、人間の自由なのだからでしょう。親の思いというものは大切なものなのですが、それに縛られる必要はないのかもしれませんね。

よく、「神も仏もない」という言葉が、簡単に使われますが、それは違います。神は人間の創造にめったに口出ししません。子供の将来は、親がどんなに心配しようが、最終的には子供自身が決めることなのだからです。

 

 

この世のはじまり (7) ~人間創造~

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この世のはじまりというには、まだ、この世、この世界は出現していません。

なぜなら、神はこの世を創造(つく)ろうとしたわけではないからです。

人間というものを創造(つく)ろうとしたのにはまちがいないのですが、この世界ではありません。

ただ、人間をつくれば、人間がすむ世界、環境が次に必要となります。ですから、この世界は、人間が創造された後にできてきます。

ここらへんは、ちょっと私たちの常識とは違いますね。でも、常識とはいったい何なんでしょうか?無から有はうまれないのでしょうか?心で思うことが、様々なもの(物質)に影響をあたえないのでしょうか?

短期的には、人間の心が、物質(もの)とか環境に影響を与えていないように見えても、長期的にはどうでしょうか。最近の環境破壊、気候温暖化という環境の変化は、地球に大きな変化をもたらしています。

これなど、人間一人一人の心は小さいように見えても、その一人一人の心が集積した結果が、大きな変化をもたらしたといえるでしょう。

そのように考えてみるとき、そして、この世界のはじまりを考えるのであれば、大きな思考転換が必要となるのだと思います。

なぜなら、宇宙の誕生の瞬間を考えるとき、なにも存在していない無というものから、半径150億光年もある、信じられないくらいの広大な宇宙というものが誕生しているからです。

何か理由はわからないけれど、宇宙が出現して、その中の、(宇宙からすれば)目にも見えないような小さな点ぐらいの地球に、全く奇跡のような偶然が重なって、そこに生命が誕生し、その生命から奇跡のように、意識をもった人間が生まれた。科学者はそう言うかもしれませんね。でも、それは違うと思います。

神という存在が、人間を創造(つく)るという意思をもって、いくつかのたましいと共同して、人間を創造し、また、このたましいは人間のもとになりました。そして、この世界、宇宙も人間が成長すると同時に成長していくことを神話は語っています。


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神は人間を創造するにあたって、二つのたましいに、人間の親となるよう説得することになります。なかなか、うんと言ってくれません。当然ですね。そんな重大な使命を、簡単に承諾なんてできませんよね。

しかし、神が本気になっての説得に、断りきれるはずもないというのも事実でしょう。とうとう、二つのたましいは神の説得を聞き入れ、その使命を受けることになります。

人間の本当の親である、人間の夫婦の原型がまず決まることになります。

 

では、この世界、この人間が、この世に存在するためには、どんなことが必要なのでしょうか?

普通に考えると、まず、物質の元になるもの(原子)と、その原子を存在させるための力、法則というものが必要となるのでしょうね。

私の乏しい科学的知識では、この宇宙には四つの力が存在するのだそうです。重力、電磁力、強い力(原子をつなぎとめる力)、弱い力(原子が崩壊するときの力)の四つなのだそうです。そして、原子が存在するだけでは、まだ足りません。この世界、人間が存在するためには、まだ、さまざまな法則が必要となるはずです。

 

この世のはじまり (6)~親~


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神が人間を創造(つく)ろうと思われた。しかし、そんなことは信じられない、そんな証拠はどこにあるのか、と言う人もあるかもしれませんね。

私は親(神が人間を創造したのであれば、神は人間の親だと思います)である神が人間に、あなたたちは私が創造(つく)ったのですよといったなら、そのことだけで、充分納得できます。

私たちが今ここに、存在していることがその証拠です。

私はよく、人に話したりすることもあるのですが、私たちはよく、子供ができた、子供をつくったという言葉を口にします。しかし、よくよく考えると、その言葉は間違っています。子供というものは、何か不思議な力によって、私たちの知らない(意識していない)ところで創造され、成長して、母親の胎内(たいない)から生まれてきたというのが真実です。

母親はその胎内を、子供に貸したとはいえるかもしれませんし、子供が生まれてからは、親というものは、かなりの犠牲をはらって、育てるのもほんとうでしょう。でも、創造(つく)ったかというと、それは違うのだと思います。


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まだ何も存在していない、無。

そこには物質(もの)はもちろん、今ここに存在している法則というものもありません。

ただそこに親である神、月日という二神、月様、日様がいるだけです。月様が日様に相談します。人間というものを創造(つく)り、その人間が無邪気(むじゃき)に、にぎやかに暮らすのを見て、(神も)共に楽しみたいと思われたのだそうです。日様も同意して、人間創造がはじまりました。

この人間創造のために、その創造の段取りがなされることとなりました。まず、一番最初になされたのは、人間の親というものの選定です。そして、その親にちゃんと了解させ、その使命をまっとうさせることです。

そのたましいを神は選ぶことになります。

ですが、それは、とてつもなく、大きな責任をともなう、困難な使命です。誰もが、尻込(しりご)みしたくなるようなものです。

ですが、そんな使命を最後には、承諾(しょうだく)することとなります。神の説得に、断りきれるたましいはありません。

きっと、できるとか、できないとか、そんなことを考えてできるものではないのでしょう。ただ、与えられた使命を、夢中になって果たすしかない、承諾した以上は、わき目もふらず(一心に)やるしかない、というようなことなのだと思います。

さきほども言ったように、(人間の)親というものは子供を創造したかというと、創造などしていません。しかし、この世はじまりに、神から人間の親の役割を与えられた存在こそが、人間を創造したといえます。私たちはそれからすると、あたかも仮の親のようです。子供を実の親から頼むよといって預けられ、育成を一時的にまかされたようなものです、それがこの世のほんとうのことだと思います。

この世のはじまり (5)~この世で一番大切なもの~


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祖父があるとき、この世で一番大切なものはなんですかと聞かれ、少し考えてから、「信じることだと思います。」そう答えました。

私はそのとき、偶然その言葉を耳にしましたが、正直そのときは、その言葉がとてもありふれていて、平凡な気がしていました。

しかし、私も歳を取り、それなりの人生経験をつんできた今であれば、それは平凡でもなんでもなく、とてもたいせつな言葉だったことがわかります。

平凡どころか、人は例(たと)えば、生まれて来たとき、親に愛されたかどうかによって、親を信じることを学び、親を信じることによって、次に自分を信じることを学びます。もし、そこで、その前提が失われていれば、その前提を知るためには、大変な努力をしてさがそうとするのだとわかりました。

自分を信じること、その次に人を信じること、それができないと、人はあたかも、荒野に取り残されたような人生を送ってしまうことになるのだと思います。


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神があるとき、人間を創造(つく)ろうと思いつかれのだそうです。

どんな証拠があるのだと聞く人もいるかと思いますが、親(神)がそう言っているのに、証拠がないと信じられないというのも、ちょっとどうかなぁと思います。親がお前を生んだんだよ、そのときの状況はこんなだったよ、たいへんだったんだよ、そんな説明で充分納得できるはずです。

なぜなら、証拠は、この私がこの世に存在しているということ、存在しているという、まさにそのこと以上の証拠はないからです。それ以上にどんな証拠が必要なのでしょうか?

それでも、私をだまして、何らかの利益を得ようといているかもしれない、などと言う人もいるかもしれません。

神が何らかの利益を得ようとすることはありません。神は人間を創造(つく)り、今この世に存在している、ありとあらゆるものを人間に与えたのですから…

自分が与えたものを、必要とするわけがありません。ただ、その神を利用して、利益を得ようとする人間はいるかもしれませんね。でも、そんな人間がいるからといって、神を否定するのはお門(かど)違いではありませんか?

神は人間というものを創造(つく)り、その人間が幸福に暮らす姿を見て、共に楽しもうと思われたといっています。私たちも親になり、その立場になってわかることもあります。人生経験をつんだ人にとって、幼子の無邪気さが、どんなに人の心を癒(いや)すのか、説明はいらないでしょう。

子供の一心(いっしん)に遊んでいる姿は、どんなに社会で嫌なことがあっても、それを帳消(ちょうけ)しにする喜びを人に与えてくれます。

そのことは神も同じであるはずです。

神が人間を創造した動機がそうであるとおっしゃっています。

 

この世のはじまり(4)~過去に置き忘れたもの~



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少女は子供の頃から感じていた、何か過去に置き忘れたもの、それを取り戻すため。また、自分の中にある、何かわからないけれど、空虚(うつろ)になってしまっているものを埋めるため、中国の親に会いにいきます。

親も20年間、心にかかっていた心のとげを癒(いや)すかのように、娘を歓迎します。

そして、短い滞在のなか、娘はなぜ自分が捨てられなければならなかったのか、問いかけます。答えの言葉は多弁ではありません。しかし、娘は、実の親がどんな過酷な状況のなかで、娘を捨てることになったのかを理解します。

別れのとき、父親はなけなしのお金をポケットから取り出し、娘の養母に差し出します。

前日に、娘が中国に残って、親を助けたい、親に親孝行したいという言葉に、「お前はアメリカに戻って幸せになりなさい、お前にはこの貧困に耐えることは難しいのだよ。」と諭した言葉と同じくらい印象的なシーンでした。


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なぜ少女が、何か過去に置き忘れたものがあると思ったのか、親の愛にめぐまれ、親の愛を疑ったこともない私にはわかりません。

ただ、映像を見る限り、親がなぜ自分をすてたのか、そのとき、どんな複雑な事情があったのか、親が自分が苦しんだ以上に、苦しみ、子供が不幸になっていないか心に掛けていたことを知った少女は、とても満足した顔をしていました。

 

自分がこの世に生まれるにあたって、親がどれほどの愛をかたむけてくれていたのか、最低、他の誰もが望んでいなかったとしても、親が自分の誕生をどれほど望んでくれていたのか、それを知ることが、人間にとって、とても必要なことなのだと思いました。

なぜなら、そのことによって、人は心のなかに、自分を信じるということができるようになるのだと思うからです。

自分が生まれてくることが、とても必要だった。そう思っていてくれる人が最低、二人いる。そうであれば、自分を信じることができる。自分を信じることができれば、人を信じることができます。信じるということは、私たちが生きるということの、根本に根ざしたものなのだからです。