秋晴れのなかに一連の雲あり

これからを生きるあなたへ

輪廻転生Ⅱ (2)

少年は取材していたスタッフ の質問に、こう答えます。 「自衛官になって、世界平和のことを考えようと思う」

「なぜそう思うの?」(スタッフ)

「昔(前世)の自分は、せっかくがんばっていって、他国との戦いで死んでしまったけれど、今回の自分は、他の国とは絶対戦わないようにしたいから」 そう答えるのです。

 

私は中学生のころ、死への不安から、輪廻転生(りんねてんせい)を信じるようになりました。 そう信じなければ、私の精神がとてももちそうになかったのですね。

ですから、そのあと、輪廻転生についての情報のアンテナが、自然に張られていたように思います。 そして、おおくの情報、知識を得ることができました。

でも、なぜそうなのかという理由については、あまり深く考えなかった気がします。

人間がたましいの存在であること。

それが、今(私のなかで)事実になっていることは、私のブログをもし、ずっと読んでいるかたがいれば、おわかりになるかと思います。

たましいが人間の本質、真実であるのならば、輪廻転生があるのも、ごく自然のことになります。

 

なぜ輪廻転生がおきるのか、なぜそのような仕組みになっているのか、理由はいくつか考えられます。

日本人になじみが深い仏教では、輪廻転生が前提となっており、因果応報という馴染みある概念と、セットで考えられている。

解脱(げだつ)は仏教の最終目標であり、輪廻転生から、抜けだすという意味になるのですが… そう🤔と、輪廻転生は、なんの反省もなく殺傷すること(生物一般において)、欲の深い自分であることなど。

それらのことに何の罪悪感も持とうとしない、人間の業(ごう)ということになりますね。

つまり、業を背負った人間が輪廻転生し、それから抜けだすことが解脱となります。 ちょっと、暗いイメージがあります。

 


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#解脱 カテゴリー:日記

輪廻転生 Ⅱ

先日、テレビで、前世を記憶する少年のことが放映されていました。

さっそく録画してから、あとで見ることにしました。 とても、良かったですね。

輪廻転生(りんねてんせい)については、以前このブログにも書いておりますので、わたしなりの意見はもう述べたつもりでしたが… あらたな発見がありました。

 

戦艦大和に乗船し、そこで戦死したという記憶をもった少年を取材し、検証していました。

まだ、幼少のころから、大和の最後の出撃、その沈没、そして、自分もそこで亡くなるという記憶をもっていました。

それは、ほんの幼少の子供(2~3歳のころから始まる)が知りえるような知識ではありませんので、親が不思議に思うのも当然のことでしょう。

その真偽は、それぞれが判断することですが、テレビの最後に、少年は前世で学んでいたであろう、海軍兵学校をたずねることになります。

本人もそれを望み、自分の中にある(自分でもよくわからない)なにかを呼び覚ましたい、そして、それが何んであるかを確認したかったのかもしれません。

そこで、少年は次のことを確認します。

 

兵学校に行く途中の、(瀬戸内海の)穏やかな海を覚えていること。

兵学校の校舎はもう、立て替えられていて、思い出すこともありませんでしたが、裏山の頂上に到る坂道を昔(前世で)、駈け登ったことを確信します。

それは(理由などないのでしょうが)、ただ、わかったということのようです。

それらを記録していたスタッフが、最後に少年にたずねます。

「将来何になりたい?」 すると、少年はこう答えます。 「自衛官になりたいです。」

 

その理由に、私はとても驚かされました。

#りんねてんせい #りんねてんしょう カテゴリー:日記

母のシクラメン


玄関さきに、シクラメンの花が見事に咲いていました。
母が亡くなってから、もう十年ぐらいたつのでしょうか。
母がシクラメンが好きで、毎年シクラメンを買っていたことを、妻から聞いてはじめて知りました。

妻は、母が最後に買ってきたシクラメンに水やりをしていたようで、あるとき、
シクラメンが咲いたわ。これお母さんのシクラメンなのよ。」
と、喜びの声をあげました。

私はそのとき、始めて母がシクラメンが好きで、毎年買っていたことを知ったのです。
これを見た人はみな、「シクラメンって、毎年咲くのね。」って、驚きます。

こんなことを、母の唯一の息子は、亡くなってから知ることになるなんて…
親不孝とは言いませんが、あまりにも身近かすぎて、気づかないのにもほどがあります。
そんな僕ですが、妻のおかげで、こうやって母を思い出す😃💡ことができています。
そんな妻に感謝です。

母が亡くなってすぐに、妻が
「きょう、お母さんが来てたよ。」とか、
また、毎年一回くらいは「今日ね、お母さんが夢にでてきたわよ。」なんて、報告してくれます。
「あなたは息子なのに、(お母さんの)夢もみないの?」
なんて、あきれられます。

残念ながら霊感ゼロの僕が、夢でさえ母にあうことはありません。
でも、妻がそうやっていつも、母がきてくれたことを報告してくれるので、そんなことがあると、ときどき母に会えたようで、なにかなつかしい気持ちになります。

また、今年もシクラメンが咲いて、目には見えなくても、ここにいてくれること実感して、少し安心するのです。

山田洋次監督「学校」(2)


友人の住む豪雪地帯が今、どうなっているのか。
心配もしていなかった自分がいて、電話の一本もかけなきゃと、少し反省しきりでおります。

山田洋次監督「学校Ⅲ~Ⅳ」も、西田敏行さんが主演かと思っておりましたら、学校(Ⅲ)は今や大女優の大竹しのぶさんでした。
(私は)とくにファンというわけではありませんでしたが、みんなが名優というのには、ちゃんと理由(わけ)があることが、はじめてわかりました。
やはり、そんな名優がこの作品を名作にしたのかもしれません。
大竹さんの演技に脱帽です。
そして、何かわからないけれど、何かとても、勇気をもらえた作品でした。

学校Ⅳ(4)は、まだ若き日の金井勇太さん(今もテレビで、よく見ますね)が主役なんですね。
私にとっては、亡き名優、丹波哲郎さんの名演技にひかれました。
霊界のスポークスマンを自称していた丹波さんですが、その演技も超一流であることに、まちがいはありません。
とても、さわやかな後味があって。
このシリーズ(学校)は、ちょっと暗いのがたまにきずなのですが、最後は明るく終わってくれたのがうれいしですね。😁

日本を代表する名監督の、作品を存分に味わった数日となりました。
山田監督の、(社会の)弱者(弱者という言い方は、ほんとうは良くないのでしょうが)といわれる人たちへのまなざし。
つい、(いつの間にか)自分より下に見ていたなぁという現実と、でも、それは絶対違うんだという、強いメッセージを受けとることのできた作品でした。

ひさびさに泣けて😭、心の洗濯ができました。😉
作品を薦めて、DVDまで貸してくれた知人に感謝です。

山田洋次監督「学校」


時々お会いするかたと、ひさびさにお話ししていました。
話題が西田敏行さんのことになって、私が帰るとき、西田さんが出演している、学校シリーズのDVDを貸すので、見てみたらと、薦めてくださいました。

😭
日本の大監督である、山田洋次監督の映画、寅さんシリーズなど、まったく見なかったわけではありませんが、大好きかというと、そうでもないというのが、正直なところです。
私の好みは、アクションものとか、冒険ものが好きなのです。

日本全国が大雪にみまわれ、私の住む地方も、それなりの雪景色となりました。
外出を最小限度にしているこのときが、絶好のチャンスとなりました。
ひさびさのDVD鑑賞、ロードショーです。

学校 Ⅰ~Ⅱ
名優西田敏行が、その個性をいかんなく発揮して、この作品を名作にしました(学校Ⅰ)。
最初はちょっと古くさく感じて(1993年)、現代の価値観とのギャップも感じてしまったのも事実ですが、最後の「幸福って何?」という授業シーンには、ひさびさ感動しました。
教育とは、人に教えることではなく、その人から引き出すことなのだということが、存分にわかるシーンでした。
そのとき、教師である西田さんは、生徒に答えを問いかけるだけで、一言もその答えには言及していませんでした。
そして、最後にこう言います。
「今日はいい授業だった。」

「学校Ⅱ」では、最後の卒業生にたいする、最後の言葉。
先生である、西田さんが感極まって、言葉がでません。
結局一言も、卒業生に言葉を発することなく、終わります。でも、人と人って、言葉がなくても、(思いとは)こんなにも伝わるのですね。
思いは、伝わりすぎるぐらい伝わります。
この二つのシーンで、観客は泣かされてしまうでしょう。

ほんとうの教育って、どこにあるのでしょうか?
人生で出会うさまざまな人、さまざまな出来事、困難のなかで味わった正味、味わいから得た感情。心の動き。
そこからあとは、それをいかにして引出すのか、それだけなのかもしれません。

記憶の迷宮 (4)


だいぶ昔、若いときにフレデリックフォ-サイスの「悪魔の選択」という本を読みました。
ロシアの小麦の不作の兆候を、アメリカの偵察衛星が発見するというところからはじまり。
最後にはアメリカ大統領が、専用機に乗りながら、核ミサイルのボタンに手をかけるという、とてもスリリングな展開に圧倒されました。
とてもおもしろかったのですが、そのとき、思ったことがありました。
作者はどうやってこの本を書いたのだろうか、なぜアメリカの国家機密のような情報を(作者は)知っているのだろうか。
大統領の心の機微、変遷を作者はどうやって知りえたのだろうかと、ちょっと疑問に思ったほどです。

つらつら思っていたのですが、それにしても、小説家、作家というものがなぜ、こんな発想ができるのか、なぜ、こんな物語をつむぎだせるのか、少々疑問でした。
そんな(どうでもいい)ことを、考えていたら、最近、私のなかでの一つの仮説が生まれました。

これは、私の中の仮説、空想、どうでもいいといえば、たいして意味のない発見なのですが、読んでいただければうれしいかぎりです。

人はこの世のなかで、実は数えきれないほどの輪廻転生を繰返しながら生きている。

それが本当かどうかは、議論のあるところだと思いますが、それについての証拠は、その人に探す気さえあれば、充分なものを得ることができるのも確か。

もし、そのことに、多少となりの合理性があるとすると、人は潜在意識、または無意識のなかに、前世の(もしくは未来の)記憶をもっているはず。
もしくは、何かのときに、それが思い出されるということがあっても、おかしなことではない。

小説家というものは、無意識のうちに、前世の記憶というものを、脳内の創造的な力(潜在能力)を使って、(その記憶を)引きだすことができるのかもしれない
だから、一見それは、作者が経験したはずもない、まれな経験のはずなのに、ちゃんとしたリアリティがある。
ちゃんと人に感動をあたえるのは、それが(前世で、もしくは未来で経験した)事実であるから共感が得られるのだ。

もちろん、現代社会にあっては、そんな物語をAI(人工知能)が、人間にかわってつむぎだすことも可能だが、きっと、今のところは、人に感動をあたえるまでにはいかないはずだ。
なぜなら、人は(その本体である)たましいの琴線(きんせん)というものににふれたとき、はじめて心うごかされ、ほんとうに行動にうつすことができるのだから…

私たち人間は、この世という世界で、物語を生きている。
物語にはいくつもの可能性というバージョンがあって、それを私たちは、本当に自由に、選択することができる。
もしかすると、そんなに自由ではない、また、自分でも思ってもみなかった選択をしてしまったなんてこともあるが、それはそれ。
なぜなら、私たちは、自分のほんとうの姿を知らないまま、人生をおえてしまうのが大半なのだから。

物語は作家の創作であり、幻想だともいえるが、私たちの人生にしたって、それが幻想でないと、誰が言いきれるのだろうか?

この世の真実とは、さまざまな現実を、(可能性としての多元世界が存在して、その意味で、あらゆる選択が可能な)人生のバージョンを、たましいという見えざる司令塔のもと、人が選択し、それでも何度か後悔の涙をながし、そして、この世という舞台で、それでもなお、あらたな物語に出会おうとする、永遠の物語なのかもしれない。

いつも、おつきあいありがとうございました。記憶の迷宮(1)~(4)を終えます。

記憶の迷宮 (3)


だいぶ昔のことになりますが、関口宏のワンダーゾーンという番組を民放でやっていました。(30年以上前ですかね。)
番組の中で、子供が母親の胎内にいるとき、その記憶というものが、ほんとうはあるのかもしれない。
その実例として、こんな例が紹介されていました。

子供がバイオリンを習うのですが、子供にとって、かなり難解な曲をあっという間に、(もしくは誰にも教えられないのに)ひいてしまうのです。
ちょっと常識ではありえません。
ただ、母親はその理由として、ひとつ思い当たることがありました。
子供が母親の胎内いたとき、その曲を何度も何度も、聞かせていたのです。
一時期、胎教といって、そんなことがよく(世間で)行われていました。

記憶ということの不思議さは、数えればきりないくらいありますね。
それは、もしかすると最近話題のAI(人工知能)などと、印象がかぶるかたもいるかと思いますが、私はかなり違う気がしています。

AIの進歩は、ほんとうに驚異的ではありますが、それはあくまで、人間の意図したことの範囲内でありますし、その意味では、暴走したり、(AIが)自分で判断して行動を起こすということはありません。
また、しろうと考えですが、私たちの記憶にある感情は、どうやって脳に記録されているのでしょうか?(このこと一つとっても、AIとは違うと思います)

(人間の)脳の細胞がAIと違う理由として、私はその創造性なんかも、大きく違っていることの一つではないかと考えています。
それは、記憶のこととはちょっと違ってくるのですが、私たちがものを見るということでも、脳の創造性が大きくかかわってきています。

私たちがものを見るということ、それは、(私は)つねづね、とても不思議なことではないかなぁと感じていました。
私たちがものを見るということは、実際にはどんなことが起きているのでしょうか。
私たちの脳のなかで、(私たちが見た)風景が再構築されています。
再創造といってもいいでしょう。

ですから、よくある騙(だま)し絵などは、脳の思い込みなどから、間違って(脳内で)創造してしまい、人はだまされるのだそうです。