祖父があるとき、この世で一番大切なものはなんですかと聞かれ、少し考えてから、「信じることだと思います。」そう答えました。
私はそのとき、偶然その言葉を耳にしましたが、正直そのときは、その言葉がとてもありふれていて、平凡な気がしていました。
しかし、私も歳を取り、それなりの人生経験をつんできた今であれば、それは平凡でもなんでもなく、とてもたいせつな言葉だったことがわかります。
平凡どころか、人は例(たと)えば、生まれて来たとき、親に愛されたかどうかによって、親を信じることを学び、親を信じることによって、次に自分を信じることを学びます。もし、そこで、その前提が失われていれば、その前提を知るためには、大変な努力をしてさがそうとするのだとわかりました。
自分を信じること、その次に人を信じること、それができないと、人はあたかも、荒野に取り残されたような人生を送ってしまうことになるのだと思います。
神があるとき、人間を創造(つく)ろうと思いつかれのだそうです。
どんな証拠があるのだと聞く人もいるかと思いますが、親(神)がそう言っているのに、証拠がないと信じられないというのも、ちょっとどうかなぁと思います。親がお前を生んだんだよ、そのときの状況はこんなだったよ、たいへんだったんだよ、そんな説明で充分納得できるはずです。
なぜなら、証拠は、この私がこの世に存在しているということ、存在しているという、まさにそのこと以上の証拠はないからです。それ以上にどんな証拠が必要なのでしょうか?
それでも、私をだまして、何らかの利益を得ようといているかもしれない、などと言う人もいるかもしれません。
神が何らかの利益を得ようとすることはありません。神は人間を創造(つく)り、今この世に存在している、ありとあらゆるものを人間に与えたのですから…
自分が与えたものを、必要とするわけがありません。ただ、その神を利用して、利益を得ようとする人間はいるかもしれませんね。でも、そんな人間がいるからといって、神を否定するのはお門(かど)違いではありませんか?
神は人間というものを創造(つく)り、その人間が幸福に暮らす姿を見て、共に楽しもうと思われたといっています。私たちも親になり、その立場になってわかることもあります。人生経験をつんだ人にとって、幼子の無邪気さが、どんなに人の心を癒(いや)すのか、説明はいらないでしょう。
子供の一心(いっしん)に遊んでいる姿は、どんなに社会で嫌なことがあっても、それを帳消(ちょうけ)しにする喜びを人に与えてくれます。
そのことは神も同じであるはずです。
神が人間を創造した動機がそうであるとおっしゃっています。